キリンになりたい

物事には入口と出口がなきゃならない 的なことを村上春樹が小説の中で言ってた。ような気がする。ぼくがこうやって文章を書く場を設けたのはそういう理由です。ありがたいことに、新鮮に感じられることとか刺激に思うようなことがこの雑多な世界に(まだ)たくさんある。そういうものを見ると言葉の前段階の、靄がかった思念が生まれてくる感じがして紙とペンが欲しくなる。こんな感じで言葉の蛇口が捻られることは結構あるんだけど、排水溝がないものだからすっかり困ってしまう。入口はあるのに出口はない。ここを今日からその出口にしたいと思います。年明けに始めた日記、もうつけてないほどの三日坊主だから不安ではあるけどね。

話は戻るけど、この新鮮な世界はいつか食べ尽くされてしまうのだろうか、と不安になってしまうわけだ。サイゼリヤのメニューの間違い探しみたいに、隠された「新鮮さ」や「刺激」は時間とともに見つけるのが難しくなってくる。そんな感じのイメージだった。

ところで、ぼくは谷川俊太郎の書く文章がわりに好きです。というわけでオペラシティでやってる谷川俊太郎展に行ってきた。そのときぼくの頭髪は金色に光り輝いていたものだから、なんだか似つかわしくないなと思って帽子をかぶって行きました。ぼくの稚拙な文章では到底表せないんだけど、展覧会はすごく良かった。詩と音楽と映像を融合させたり、柱に詩を一行ずつ書いてみたり、言葉との新しいふれ合い方を見せてくれてるような気がした。ところどころにメモみたいなのが貼ってあって、そこには本人直筆の短い文章が書かれていたりする。ひとつ覚えているのが「新しい朝というけれど、それなら夜は古いのかな?」と書いてあるメモなんだけど(うろ覚えだから正確さに自信はない)、おもしろいなぁと感心した。もちろん「新しいのはその日のことを指しており、始まりの象徴としての朝を提示しているので夜との対比をしているのではない、バカか」と言ってしまうのは簡単なんだけど、おもしろさを感じるのは言葉遊び的な発想の豊かさなのです。普通の人がラジオ体操の「あった〜らしっい〜あ〜さがきたっ」の部分をきいて彼と同じような発想に辿り着くか?と訊かれたら無理っしょ、と答える以外ない。やはり谷川俊太郎は驚くべき詩的洞察力(こんな言葉が存在するのかはしらない)を持ち合わせていて、それが彼の偉大さに繋がっているのだろう、と偉そうに19の小僧が思ったわけだ。ここで思い出したいのは、谷川俊太郎はかなりのおじいちゃんであるということだ。御歳86歳。おじいちゃんレベルで言ったらラスボス前の中ボスくらいである。そんな長い人生を送ってきた彼だが、作品を見る限り見ている世界の鮮度も共に老いていっている様子は全くない。さっきの「鮮度サイゼの間違い探し理論」の反例だ。もう学会で発表することはできない。

思うのはやっぱり立場によって網膜に何が映ってるのかは全然違うんだなということで、詩人としての谷川俊太郎は大学生としてのぼくと見えている世界の乖離はものすごいんだろう。動物によって見える色、聞こえる音、嗅げる匂いは違うらしいですがそれと似ているのかもしれない。谷川俊太郎がサバンナのキリンとするとぼくはきっとその足元のワラジムシで、視界には草が張り付いているような、そんな感じ。キリンは綺麗な夕日も見られるし、天敵も見つけられるし、高いところにあるミシュラン三つ星の葉っぱを食むこともできるわけで、それは得られる刺激も変わってくる。でも幸運だったのはぼくらが同じ人間だったということで、視界を変えることに物理的制約はないということです。ぼくが彼のような立派で素敵な人になれるかと問われたら怪しいんだけど、いろんなものに触れていればいつかはサバンナのオカピくらいの視点は持てるかもしれない。

と、いうことで昨日御茶ノ水丸善で素敵な短歌集を買ってしまった。今月生活費がヤバいのにね。まあこれも生活の一部か