家系ラーメン幸福論

ぼくの住むあたりにいくつか家系ラーメンの店があるのだが、それらの店は大体毎月ラーメン一杯500円の日が設定されている。普段ふかしたじゃがいもで糊口をしのいでいる(マジ)ぼくにとって、その日にラーメン屋に行くことは義務に等しい。雨が降っていようが行く。先月の500円の日、雨の中自転車でラーメン屋に向かっていたところ派手にスリップし、こけた。こけたのだ。大学生なのに。そしてマイ・フェイバリット・ズボンが破けた。綺麗目なファッションに合わせる感じのズボンなのに一瞬でダメージパンツになってしまった。破けたところから見えるぼくの膝は赤く染まっている。ぼくがなにをしたというんだ。近くにいたお兄さんに「大丈夫ですか?」と言われた。大丈夫ではない。だがぼくは今年20歳になるのだ。多少辛いことがあろうとも、そんな素振りは見せずに気丈に振る舞う。これが大人になるということだ。ぼくは「ダイジョブッス」とお兄さんの顔を見ないようにして言った。ほんとに泣きたいな、と思った。
今回言いたいのはぼくが少し大人になった話ではない。普通、ラーメン並盛が500円になる日に何を注文するだろうか、という問いを投げかけたい。愚問だ、と一蹴されるかもしれない。"普通"、ラーメン並盛を注文するだろう。だって月に一回の500円になる日なのだから。そのために行くんだから。だがぼくたちはそれでいいのだろうか?
500円の日にあるラーメン屋に行った。ぼくと同じように500円につられた人たち(みんな目が死んでいる)で店内はごった返していた。ぼくは当然500円の醤油ラーメンの食券を購入し、カウンター席に着いた。目が死んだ仲間たち(そう、ぼくたちは仲間なのだ)もみな嬉しそうに500円のラーメンを食べている。幸せってこういうことなんだろうな、と気づかされる。『家系ラーメン幸福論』という新書をPHP文庫から出版したいと思う。これをご覧になっている出版関係の皆様、ご一考ください。
ぼくの隣の席にひとりのおっさんが座った。おっさんは店員のお姉さんに食券を渡し、お姉さんは厨房に向かって注文をコールする。「ネギラーメン一丁!」…ぼくはハッとした。戦闘系の漫画でめちゃめちゃ強いキャラの気配を感じた奴みたいになった。ネギラーメン。それは500円にはならないラーメンだ。500円の日に500円のラーメンを頼まなかったのだ。おっさんが500円の日の存在を知らなかったと考えることもできるが、食券機にはしっかり表示されている。気づかないわけがない。すると突然、おっさんは店員のお姉さんに声をかけた。「すいません、○○ありますか?」大変申し訳ないのだが、○○の部分は聞き取れなかった。お姉さんは厨房に確認に向かい、○○が用意できる旨をおっさんに伝えた。○○は聞き取れなかったと書いたが、確実にトッピングメニューの中にある名前ではなかった。聞きなれない言葉だったため、瞬時に理解できなかったのだ。ぼくは気づいた。裏メニューだ。只者ではない。こんな玄人の隣で嬉しそうに500円のラーメンを食べている自分が恥ずかしい。ぼくは急いで食べて店を出た。
話は変わるが、1年に1、2回、「ミスドに行きたくなる日」が存在する。別にミスドのドーナツはあれば食べるし、おいしいことはわかっているのだが、わざわざ店に出向くほどではない。だが「ミスドに行きたくなる日」にはミスドに行きたくなるのだ。ぼくは震える手を抑えながら近所のミスドに向かった。すると店の周辺に人だかりができている。ぼくはバカなので「祭りか?」と思っていたが違った。『三太郎の日』だ。auユーザーはドーナツが無料でもらえるというキャンペーンをやっていたのである。つまりそこに集まった人々はタダのドーナツを喰らおうとする輩だったのだ。長蛇の列で、普通に並んだら30分はかかるだろう。ぼくは激怒した。資本主義とはかくも残酷なものか。何が三太郎だ。ぼくも名前に太郎がつくし四太郎ってことでいいだろ。入れてくれよ。え?ダメ?docomoユーザーだから?ふざけるな。年に1、2回しかない「ミスドに行きたくなる日」だぞ。『三太郎の日』よりも貴重だし、文字数だって6も多い。こっちを優先すべきは火を見るよりも明らかである。だがぼくは資本主義社会のなかに位置づけられて生きている。日本にいる限りこのフレームワークを脱することはできないのだ。ぼくは悔し涙をこらえてファミマでチュロスを買った。
ぼくは考えた。ラーメンの例とミスドの例には共通項が見受けられる。ミスドの例で、ぼくは資本主義(auミスドの間で巨額のお金が動いているに違いない)にフレンチクルーラーを食べる機会を奪われた。ある種の不公平感がそこには存在する。ラーメンの例ではどうか。あのおっさんは500円の日に500円対象外のラーメンを注文した。それはそのラーメンが食べたかったからだろう。裏メニューを把握しているくらいである。かなり通い詰めているはずだ。となるとドーナツの例のぼくとラーメンの例のおっさんは同じなのではないか。おっさんにも「家系ラーメンを食べたい日」があって、それが500円の日とかち合った。そのせいで混雑を極めた店内での食事を余儀なくされた。「500円だから店に来るやつ」に自分の信念を侵されるのだ。金銭的な要因に動かされることは時に卑しく映る。他人のそれが自分の金銭から独立した純粋な欲望の領域を侵害したとき感じる不公平感はかなりのものだ。
自分の幸せは他人の不幸せの上に成り立っている、とは言わない。だが、思慮の浅さゆえ他人の機会を損ねさせてしまうことは日常的に存在しうる。…これを『家系ラーメン幸福論』の序文にしよう。これをご覧になっている出版関係の皆様、ご一考ください。