木の破片と遺骨のはなし

ぼくのギターが壊れた。

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サークルのライブ中、控室でちょっとした事故があったらしく、ぼくのギターはずいぶんと惨めな姿になってしまった。

 

経緯についてあえて詳しく書いたりはしないけれど、誰が悪いとかの話はしない。

起こってしまったことはどうにもならないし、それについてぐちぐち言うのはナンセンスなことだと思う。

ただ、ぼくは木の板に戻ってしまったギターを前に色々と思うことがあった。

この感情はいつか忘れてしまうだろうから書き留めておく。

 

 

 

ぼくがこのギターと出会ったのは2017年の5月6日、お茶の水の楽器屋だった。

木の質感と小ぶりなボディが気に入ったし、Martinのわりに安かった(6万4000円くらい)から貯金を全て注ぎ込んで買うことにした。

それでもお金が少し足りなかったから付き添いにきてくれた先輩から借りた。

 

丸みがあってあたたかい音がするギターだなと思った。

ぼくはうれしくて部室にたくさん通って弾いていたけれども、あんまり上手くはならなかった。

これはぼくのセンスの問題。

正直最近は弾きにくいなと思うことが多かったし、よく響くというわけでもなかったから他の人のギターが羨ましく感じることもあったけど、なぜか新しいギターを買おうとは思わなかった。

弾きにくいな、と思いながらずっと弾いていた。

 

 

 

そのギターは文字通り、木っ端微塵になってしまった。

小ぶりなボディには穴が開いて、板と板に分離した。

 

ぼくは、それを見たとき、とてもびっくりした。

壊れていることにびっくりしたのではなく、「板」であったことにびっくりした。

 

自分のギターは板を組み合わせて作られた弦楽器にすぎないことを見せつけられた気がした。

 

薄暗い部室の中、板たちの前で何もできずにぼんやりしていたら先輩がやってきたので一緒に煙草を吸った。

どうやら煙草の味というのは銘柄にしか依存しないらしい。

 

 

 

この一件に近い感情を抱いた出来事を思い出した。

 

10年ほど前、祖父が死んだ。

目つきが鋭く、あまり喋らない人だったので、ぼくはずっとビビっていたけれど、もう会えなくなると思うとどうしようもなく悲しかった。

 

お葬式が終わり、まるで廃工場みたいな火葬場へ移動した。

お通夜からずっと、(よく言われる表現だけど)なんだか寝ているみたいに見えた。

 

祖父の身体は数時間ですっかり焼かれてしまった。

金属の台の上にわずかに骨が残っているだけ。

白い石のようになった祖父を見て、やはりぼくはびっくりした。

あまりに物質的すぎると思った。

身近で、少し恐れていた人が、モノとして目の前にある状況に混乱してしまう。

 

周りの人間だって、自分だって、白い石に過ぎないのかもしれない。

 

 

 

 

 

そんなわけで、ぼくは壊れたギターが遺骨のように思えて仕方がなかった。

 

 

ぼくのではないギターが壊れていたとしたら?

きっと「ギターの中ってこんな風になってるんだ」と感心していたと思う。

 

ぼくがギターを弾いていた"時間"が、ギターをただの板を組み合わせて作られた弦楽器にさせなかったのだと思う。

 

 

毛羽立った木の折れ目を見る。

時間と身体の不可逆性に襲われる感覚。

『たちぎれ線香』 わかりやすい解答解説【動画あり】

お久しぶりです。

先日、ぼくが所属する一橋大学落語研究会一年生寄席が開催されました。

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↑フライヤーつくった

 

そこにぼくもお情けで出させてもらいました(落語をはじめてやったのは半年前だから一年生だよね!)。

 

かけたネタは『たちぎれ線香』。

実はちょっとしたプロジェクトとして、台本から演出まで丁寧に作り上げています。

 

というのも落語うまうまの先輩Nさんに「君に合うと思うから」とこのネタを勧めていただいて、解釈の部分から演技指導までみっっちり手伝ってもらったのです。

 

おかげさまで大きな失敗もなく、本番を乗り切ることができました。

 

しかしこれで終わるのももったいないので、解説をつけたいと思います。

 

自分の制作物に自分で解説をつけるのはダサダサのダサなのは承知の上ですが、

  1. 今回の解釈を記録しておきたい
  2. 本とか映画見たあとに解説・解説のブログ読むのたのしい
  3. ぼくの演技力不足できちんと伝えきれていない気がする

という理由で書き残しておこうと思います。

 

 

 

たちぎれ線香 原作について

 

原作をご存知ない方のために簡単に紹介しておきます。

まず演者は、かつて芸者への花代(支払い)を時間で換算するために、線香が燃えた長さを測っていたことを説明する。

とある商家(上方では船場、東京では本所か日本橋)の若旦那は、それまで遊びを知らず誠実に働いていたが、友達に誘われて花街(上方ではミナミ、東京では深川か築地)へ行き、置屋の娘で芸者の小糸(東京では美代吉とも)に出会い、一目惚れをした。

若旦那はたちまち小糸に入れあげ、店の金にまで手をつけるにいたる。親族や店員による会議が開かれ、番頭は「乞食の格好をさせて追い出し、町を歩かせればお金のありがたみがわかるのではないか」と言い放つ。それを聞いた若旦那は逆上し、「乞食にできるものならやってみろ」と言うが、服を脱がされるとたちまち「ほかのことなら何でもするから許してくれ」とトーンダウンする。番頭は、ふたりを逢わせないようにするために、若旦那に対し店の蔵の中に押し込め、100日間そこで暮らすよう言い渡す。

小糸の店からは、毎日のように手紙が来るが、番頭は若旦那に見せない。若旦那が蔵住まいになって80日目、ついに手紙が来なくなる。

100日が経過し、若旦那は蔵から出ることを許される。若旦那は「おかげで改心した」と語り、番頭に感謝の言葉をかける。番頭は、最後に届いた手紙を若旦那に見せる。

「この文をご覧に相なりそうろう上には 即刻のお越しこれ無き節には 今生にてお目にかかれまじくそろ かしく 小糸」

番頭は「色街の恋は80日というが、こんなことを書いて気を引いて、薄情なものですなあ」と言う。若旦那は「蔵の中で願をかけていた神社(上方では「天満の天神さん」東京では「浅草の観音様」)へお参りをしたい」と言って外出し、花街へ向かう。

置屋へ着くと、若旦那は女将に位牌を見せられ、小糸が本当に死んだことを知る。「若旦那が来なくなった最初の日、芝居を見る約束をしていて楽しみにしていたが、若旦那は来ない。文(ふみ=手紙)を出しても店に来ない。その繰り返しで、芸者や店の者総出で文を出したが、それでも来ない。そのうちに小糸は恋わずらいをこじらせ、食べ物を何も受けつけなくなり、あの最後の文を出した次の日、若旦那があつらえてくれた三味線を弾いて、死んでしまった」と女将は語り、若旦那の不義理をなじる。若旦那は号泣し、「蔵の戸を蹴破ってでも来るべきだった」と絶叫して、女将に事情を説明する。女将は若旦那を許し、「たまたま今日は小糸の三七日(みなぬか)。これも何かの縁」と、若旦那を仏壇に招く。

若旦那が仏前に位牌と三味線を供え、手を合わせた時、どこからともなく若旦那の好きな地唄の「雪」が流れてくる。芸者が「お仏壇の三味線が鳴ってる!」と叫ぶ。ひとりでに鳴る三味線を見た若旦那は、「小糸、許してくれ。わたしは生涯妻を持たないことに決めた」と呼びかける。その時急に三味線の音が止まる。女将は「若旦那、あの子はもう、三味線を弾けません」と言う。若旦那が「なぜ?」と聞くと、

「仏壇の線香が、たちぎれでございます」

出典: wikipedia(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/たちぎれ)

 

なっげ〜〜

まあこんな感じです。

いわゆる人情噺ですね。

 

台本を作るうえで参考にしたのは桂米朝春風亭柳好柳家さん喬です。

 

YouTube

 

米朝版を貼っておきます。

暇な人は見てみてください、すごいので。

 

 

たちぎれ線香 俺版

 

さて、今回つくった版ですが、動画を撮ってもらっていたので載せておきます。

 

YouTube

 

正直本番後は「結構いい出来だっただろ!」と思っていたのですが、いざ動画で観てみると酷いですね。

 

演技も声もイマイチでした……もっとがんばります。

 

さて、生でもしくは動画で観ていただけばわかると思いますが、原作とは色々違う点があります。

 

原作は若旦那と小糸の悲劇的な恋愛の噺であり、誰も悪くない(誰も責められない)噺です。

悪人が登場しないからこそ二人の関係はより美しく見え、涙を誘うのです。

 

ぼくは最初にこの演目を観たとき、素直に良い噺だなァと感動しましたが、段々疑問がわいてきました。

 

この噺、本当に誰も悪くないのでしょうか。

彼らは物語に都合よく感情がコントロールされているように見えます。

 

実際の人間の感情はもっとぐちゃぐちゃしていて醜いものだと思います。

 

そこで今回は、

若旦那が理性と情動の狭間で揺れ動く噺

として解釈しました。

 

理性的なもの と 情動的なもの に物語の要素を分解してみると、

理性: 店、番頭

情動: 置屋、小糸、女将、お竹

となります。

 

つまり今回の版はただの小糸との恋愛の噺ではないということです。

 

詳しくは登場人物に着目しながら解説していきます。

 

 

「小糸」の存在について

 

小糸はひじょうに重要なポジションの人物です。

原作では若旦那と恋人関係(=互恵関係)にあります。

しかし今回の版では違うベクトルが向き合っている関係です。

 

若旦那は、無意識にですが、小糸を自尊心を充たす道具としてしか見ていません。

ただ小糸と恋愛ごっこをしているにすぎないのです(本人は恋愛をしていると思い込んでいますが )。

 

その表出として、

「芝居に遅れているが、帯締めをプレゼントして機嫌を取ろうとする」

置屋に行く前に番頭に賽銭をせびる」

というシーンがあります。

小糸=道具なのでカネで関係が修復できる(壊れても修理できる)と勘違いしているのです。

 

 

しかし、小糸が死ぬことで状況は一変します。

 

小糸が死ぬということは、一方的に利用してきた道具が急に自分に刃を向けるということです。

「自尊心を保つための道具が自分のせいで壊れた」という事実が、自尊心を傷つけるのです。

 

そのため置屋のシーンは若旦那にとってホラーに近いものになっています。

 

原作では三味線が鳴り出すシーンは感動的な演出です。

しかし今回は、まるで呪いのように若旦那の目に映っています。

それ故にラストで手を合わせて必死に謝るシーンが登場するのです。

 

三味線の音が消える=線香の火が消えると部屋は真っ暗。

 

ここでやっと、若旦那は自分が何をしてきたか気づきます。

しかしもう遅く、彼は暗闇にひとりで取り残されるのです。

 

サゲのセリフ(線香がたちぎれました)は本来女将が言うのですが、今回は若旦那が呆然と呟いて幕を閉じます。

 

最後に自分の業に気づくが、もうどうすることもできないということにも気づくのです。

 

 

※この芸者の女の子の名前は人によって様々ですが、「小糸」という名前は「たちきれるもの」として連想しやすいので選びました。

 帯締めをプレゼントしようとするのも、帯締めが「たちきれるもの」だから。

 番頭に適当に処分されたであろう帯締めは小糸の境遇を暗示しています。

 

 

番頭(と倉)について

 

番頭は演技の上でも他のキャラクターと大きく差別化をしています。

 

これは

番頭=理性の象徴

ということを強調するためです。

 

煙草を吸うシーンがありますが、あれは裁判を表しています。

感情で動こうとする若旦那を裁く(理性的にさせようとする)シーンです。

 

その裁判の結果、若旦那には倉に入るという判決が下されることになります。

 

倉もまた、理性の象徴です。

情動のまったくない、完全に理性的な環境を表しています。

 

ちなみに明言していませんが、乞食云々のくだりは最終的に倉に入れさせるための番頭の策です(米朝版と一緒)。

 

倉から出た若旦那は、番頭の目論見通りに理性的になっています。

 

「まるでつきものが落ちたようだよ」というセリフがありますが、これは小糸への情が消えたようだということを示しています。

 

しかし、小糸からの手紙を読むことで情動的に戻ってしまいます。

(本当に小糸が自分のせいで死んだかもしれないという恐怖・不安)

 

結局、不安定な若旦那に対して番頭の策は上手くいかなかった、ということです。

 

女将について

 

女将は番頭と真逆、情動の象徴です。

 

終盤まで女将は、大切な小糸が若旦那に殺されたと思っています。

それ故若旦那への皮肉や恨み、小糸を失った悲しみをこめてひとりで語りだします。

 

しかし、若旦那が100日倉に入れられていたことが発覚します。

そうなると若旦那を責めることはできなくなりますが小糸が死んだことにかわりはありません。

 

ここで女将が混乱してしまうのです。

今まで女将は、若旦那を恨むことで小糸の死に自分の中で決着をつけようとしていました。

それが突然できなくなり、パニックになります。

終盤でテンポが上がるのはこういう訳です。

 

 

若旦那について

 

この物語は若旦那の周縁のはなしとも取れますが、若旦那の心の中のはなしとも取れます。

フロイトでいう超自我とSの間で自我がぐらぐらとし続けているのです。

 

彼はずっと、自分の存在に疑問を抱いていたのだと思います。

大家の若旦那として生まれ、不自由なく生きてはきたけれども、からっぽな人間であることにコンプレックスを抱き続けてきました。

 

そんなときに自分を必要としてくれる存在に出会うわけですが、なんの経験も積んでこなかった彼は不器用なままでした。

 

結局、うまく立ち回れずにそれすらも失ってしまうというオチです。

 

なんだか絶望的で、救いのないバッドエンドのように見えます。

しかし、若旦那には恵まれた環境があったのです。

それにかまけて何の努力もしなかった、彼にも責任があるとも言えます。

そんなことを言っても、気づけない人は気づけない。

 

残酷ですが、気づけない人というのは、居場所を失っていくのです。

 

 

おわりに

 

 

なっげぇ〜〜

なに?ここまで読んでる人いるんですか?

読んでくれる人にはなにかあげたいですね、パインアメとかね

 

正直ここに書いたことが正確に伝わるほど良い落語ができなかったことが悔やまれますが、いつかまたやりたいですね。

 

まあ、落語はじめてみっつめのネタにしては頑張ったでしょ!ね!

 

しかし久々に文章を書くと下手になってるな〜って感じますね〜

 

読みにくかったとは思いますが、ここまでありがとうございました!ばいばい!!

 

 

 

*重要 私の留年の可否について

こんにちは。

今回はみなさんに謝罪しなくてはならないことがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3年生に進級してしまいました

 

 

あれだけTwitterで留年を匂わせておきながら、ほんとに、ちゃんと、きっちり進級しました。

 

これは恥ずべき事態です。ここからは私の今までの行動の悪かった点を反省していこうと思います。 

 

1.安易なウケを取りに行った

 

人は往々にして他人が嫌な思いをすることを面白いと感じます。

特に「留年」はそのポップな不幸加減ゆえに一種の面白パッケージになっているのが現状です。

一連のパッケージになっている笑いを使用することは簡単かつウケやすい性質があります。

これはあるユーモアのテンプレを知っていることが仮想の仲間意識を産むためです。

たとえば身内ネタは、そのグループに属していれば普通のギャグよりウケることが多いと思います。

クオリティーが同等のとき、ビートたけしのモノマネをするよりも学校の先生のモノマネをした方が面白いと感じやすいのではないでしょうか。

同様にパッケージングされた笑いというのは、それを知っているであろう仮想の人々との仮想の内輪感に支えられているのです。淫夢語録と同じシステム。

裏を返せば、その構造を知らない人から見れば下らない内輪ノリにすぎないわけです。独創性に欠け、限られた対象にしかアプローチできないユーモアであると言わざるを得ません。

私はこれをやりました。 

 

 

だってウケるんだもん〜〜〜よくない??別にさ、誰も損はしてないじゃんか〜〜よくなくなくなくなくなくない??(©️オザケン)許してよ〜〜おねがいおねがい!いいよね?許す?許さない?え、どっち?それどっち、ちゃんと言ってよ、ん、聞こえない!ちょっと、どこいくの!待ってよ〜〜〜

 

 

 

 

 

2.自分の能力を正確に測れていなかった

 

そもそもの話でありますが、私が留年しかけたのはひとえに数学ができないという理由によるものです。

私は昔から数学が苦手だったため、文系を選択しました。そして文系しかない大学に進学しました。

しかし、入学してから驚愕の真実が発覚します。

私の学部は、数学の授業を最低でも3つクリアしないと進級できないというド畜生設定だったのです。

これにはさすがの私もビックリドッキリメカ大発進で、人生の夏休みだと思っていた大学生活に暗雲立ち込めてきたなと感じました。

 

結果、同じ授業を2回落としました。

1年生が最初にとる授業です。

微分積分Ⅰ。このチュートリアル感あふれる名前の授業を2回落としてしまったのです。

 

2年生の前期終了時点で私が単位を得た数学の授業は2つのみ(線形代数Ⅰ・Ⅱ)。

つまり後期で絶対1つ以上とらなくてはもう1年遊べるドン!になるわけです。

もちろん私もバカじゃないので、保険をかけて数学の授業を2つ履修しました。すでに2回落としている微分積分Ⅰと、統計学です。

このどちらかの単位がくればいい…そう思っていました。

 

しかし統計学は学期中に単位がこないことが確定しました。

そうです、中間試験を受けられなかったのです。

 

どうやら中間試験の前の授業でのみ、試験の存在が明かされたようでした。その回は出席がかなわず、そもそも試験があることすら知りませんでした。

遅刻して教室のドアを開けると、みんな中間試験をしていました。実際その状況に置かれてみればわかるのですが、ちょっと笑っちゃいます。

残り時間も少しだったので、諦めてドアを閉めて帰りました。

 

こうして私は微分積分Ⅰを絶対にとらなくてはいけなくなりました。

にもかかわらず、期末でミスをしたのです。

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このツイートにある通りです。

 

 

ただ、結果、なんと、この授業の評価はAでした。

やっと見出しの内容に入りますが、自分の数学力を見誤っていたのです。

私は2回の落単を経て、圧倒的マクローリン展開力がついていました。

そう、私はここで数学に目覚めたのです。

追い詰められた極限状態で新たな能力が覚醒する、少年ジャンプさながらの激アツ展開。

 

申し訳ないですが、強いて言うなら、天才

本当に申し訳ない。天才だったよ俺。パワプロでもそうだけど、天才に目覚めるのってサクセスの途中だから。の加護を受け能に愛された男。あ、それ俺だわ、はい、呼びました?え、呼んでない?いやいや嘘だって今天才って言ったじゃん、え、どこいくの?置いてかないでよ、俺天才だよ、ねえちょっと待ってよ〜〜!!

 

 

 

 

 

(各所より留年の可否についてのお問い合わせがあったためこの文章を書きました。もう許してくれるよね?2000字書いたもん)

 

【ヤバい】自分がおまんじゅうになるということについて【つらみ】

なんだか最近、自分がひどくつまらない人間になってしまっているような気がしてならない。いや、もともとおもしろ人間ではなかったのはわかっているのだけれども。

自分のする話、表情、生き様等々、どこからどこをとっても退屈な人間だと感じる。

 

そんなことを考えていると、身体が収縮し、丸くなり、白くなり、やがて宙に浮く巨大なおまんじゅうになってしまうような気がしてくるのである。

大きさは米俵くらい。薄皮がぱつんぱつんでテカテカしていて、成人男性の胸部のあたりの高度を浮遊している。中には申し訳程度のこしあんが詰められている。なぜこしあんなのかというと、自分の中につぶあんが詰まっていると考えるのはなんだかおこがましい気がするからだ。よくわからないが。

 

おまんじゅうになるにあたって、一番恐ろしいのは鳥類についばまれることだろう。

晴れた日曜日の朝にぼく(おまんじゅう)は散歩に出かける。近所のパン屋のショーケースを眺めて、あんぱんと会話をする。やあ、今日は白ごまの配列がとても美しいね、などと話しかけるのだ。さあそろそろ散歩を再開するかな、と振り返るとカラスに取り囲まれているのである。日曜日はごみの収集がないのでお腹をすかせているのだろう、カラスはぼくのもちもち生地を無慈悲にも食い破る。なにせぼくはおまんじゅうなので、強く抵抗する力はない。もうそこで観念するしかないのである。

 

悲しいのはそれだけではない。おまんじゅうになるとき、ぼくのなかの(相対的に)美しい思い出が消え去ってしまうのである。

なぜなら、これは推測にすぎないが、こしあんは記録媒体としてのメモリが圧倒的に少ないからだ。パソコンのUSBポートにこしあんを差している人を見たことがあるだろうか。つまりは、そういうことなのだ。

ぼく(おまんじゅう)は思い出などただの脳に刻まれた皺にすぎないことに気づく。だが同時に、そうやって割り切ることの残酷さに胸(こしあん)を痛めるだろう。頭(こしあん)の中は後悔や嫉妬で満たされる。そうやっていつのまにか賞味期限が切れるのだ。

 

人がおまんじゅうになるとき、それは一種の死なのかもしれない。おまんじゅうは多くを記憶することができない。ただ存在に関する疑問が幹線道路を走る車のように過ぎていくだけである。

(もしいればの話だが)これを読んでいる人は何を言っているのか理解できないかもしれない。安心してほしい、書いているぼくもよくわからない。これは言語野が少しずつこしあんに変わってきている証左である。

いやはや、これまでか

ケンタッキーで流れてる曲を調べた

ぼくはよくケンタッキーに行く。なぜなら糖質制限をしているからだ。痩せたいという気持ちとジャンキーなものを食べたいという相反する気持ちが"止揚アウフヘーベン〜"することにより、糖質の少ないケンタッキーのフライドチキンを食べるという答えに落ち着くのだ。

 

ついでにケンタッキーで作業とかもするので滞在時間は結構長い。すると嫌でもあの曲を聴かなくてはいけない。

 

ケンタッキーケンタッキーケンタッキ〜〜心ハニョワースイッツオーラァ〜イ

 

これがぼくの耳コピの限界だ。でもわかる人にはわかっていただけたと思う。ケンタッキーでいつも流れている曲。いっつも「何?」と思いながら聴いている。すげぇ耳に残るし。ケンタッキーを去る時に残るのはチキンの骨とこの曲だけだ。

 

昨日ケンタッキーの前を通ったら男子高校生の集団が店から流れるその曲に合わせて歌っていた。それにぼくは危機感を抱かざるを得なかった。ケンタッキーは耳に残るキャッチーな音楽で大衆の興味を引いて革命を扇動し、国家を転覆せんとしているのではないか。日本はケンタッキー州の飛び地としてアメリカに吸収され、カーネルおじさん型の自律監視ロボット(KFC-001)に支配された完全統制社会になるのもそう遠い未来ではない。阪神が優勝したときに道頓堀に投げ込まれるのはカーネル人形ではなく、人間かもしれないのだ。

 

 

というわけで前置きが長くなったがあの曲の正体を調べた。歌詞は以下の通り。

逆転ラバーズ

KEN☆tacky

 

We gonna, we gonna make you shine!
You gonna, you gonna make me smile!

精一杯な 僕と 涼しげな You
いつも 見抜かれてしまって Damn it!
でも 気づいたんだ そんな状態さえ
楽しんじゃってる 自分がいるんだ

Oh 認めたくなくて つい 意気がって
ダメダメ Eh Eh Oh! Eh Eh Oh!
相変わらず もう かなわないな Oh my love

ああ今日も どんな難題だって
キミはさらり解いていく
守ってるようで 守られてる
僕も応えるよ!

Can touch it!Can touch it!Can take it!
心 高まるチャンス到来!
Can touch it!Can touch it!Can take it!
ココで逃したらもう 二度と出逢えないC’mon?!
Can touch it!Can touch it!Can take it!
きっと ご馳走は目の前 見とれてるんだ
ねえ もしかしたら もう クセになっちゃう?
We gonna, we gonna make you shine!
You gonna, you gonna make me smile!

ちょっと疲れた? 不機嫌な You
時には頼って Talk to me
上手く言えないし 不器用だけど
力になれたらなんてさ

もしかして 頼れる男は
強い女性(ひと)を包み込む
なら いい女は 弱い僕らを
たくましくするかもね!

Can touch it!Can touch it!Can take it!
心構えはできたかい?
Can touch it!Can touch it!Can take it!
100の言葉よりも 一度の行動でしょ!
Can touch it!Can touch it!Can take it!
イイコトばかりじゃないけど
劣等感さえ もう味方につけて 生きていくんだ
We can touch it!
We can take it!
Yeah, we gonna make it right!

秘めた強さに 僕らは勝てない
憧れは永遠(とわ)に続いていく yeah

Oh ladies!
なんてHow wonderful!Yeah!
I’ll show you my way… Oh baby!

Can touch it!Can touch it!Can take it!
心 高まるチャンス到来!
Can touch it!Can touch it!Can take it!
ココで逃したらもう / 二度と出逢えないC’mon?!
Can touch it!Can touch it!Can take it!
きっと ご馳走は目の前 見とれてるんだ
ねえ もしかしたら もう クセになっちゃう?
We gonna, we gonna make you shine!
You gonna, you gonna make me smile!


引用: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/ken-tackey/gyakuten-lovers/

 

 

逆転ラバーズ。 逆転ラバーズ。なんか太字で2回言いたくなるタイトルである。タイトルにつっこむのはやめよう。なんとなく。

 

歌ってる人はなんとV6の三宅健とタキツバの滝沢秀明のユニット、KEN☆tacky。マジかよ、Jかよ、と思った。Jの中でもかなり大物じゃん、と思った。なのでもう何も言えない、これに関しては。

 

そして皆さん1番驚いたのはここだろう。そう、「ケンタッキー」を連呼していると思われていたサビの歌詞はCan touch itだったのだ。そんなことある?衝撃だよ。ちなみにこの衝撃の勢いでこの文章を書き始めた。ルパン三世のオープニングの冒頭が「ルパンルパーン」だと思ってたら「ルパン・ザ・サード」だったやつと同じ種類。

 

 

もしかして 頼れる男は
強い女性(ひと)を包み込む
なら いい女は 弱い僕らを
たくましくするかもね!

 

どういうこと?推測と因果関係がグチャグチャな上にジェンダー的にどうなのという問題も絡んですごいことになっている。約40文字の歌詞でこの世界観を作り出す技術は驚きである。Cool Japan。もうこれは皮肉とかじゃない。すごい。

 

 

Oh 認めたくなくて つい 意気がって
ダメダメ Eh Eh Oh! Eh Eh Oh!
相変わらず もう かなわないな Oh my love

この部分は各自10回、おうちで音読してきてください。宿題です。

 

Oh ladies!
なんてHow wonderful!Yeah!
I’ll show you my way… Oh baby!

ここも。

 

 

逆転ラバーズは大事なことも教えてくれている。

イイコトばかりじゃないけど
劣等感さえ もう味方につけて 生きていくんだ

人生イイコトばかりじゃない。生きていれば辛いことだってたくさんある。人と比べて自分が劣っているように見えてしまうことだって多々あるだろう。でもそれに悩む必要はないんだ。劣等感をバネにして一生懸命努力したり、知らない世界に飛び込んで成功した人はいっぱいいる。人の評価なんて気にしなくていい。自分のやりたいことを必死にやっていれば結果は自ずとついてくるんだから。逆転ラバーズはそう教えてくれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いや〜しかしケンタッキーで流れている曲がこんなに深いとはねぇ〜。でもなんかちょっとダサ【以下検閲により削除】

 

KFC法に基づき、以下の文章は社会的に不適切であると判断されたため削除する。ケンタッキー州ジャパン地区におけるKFC本部への侮辱行為には厳格な法的手段をもってこれを罰する。当該文章の作成者の処分は禁錮30年とする。今後現行犯にはKFC-025の判断による銃殺を許可する。

掌編 猿

僕は意味もなく外に出ようと思った少し喉が渇いていて家の近くの自販機まで行こうと

思った。

 

午前二時前の外の空気はさらりとしていてまるで夏の夜とは違う、ほんの少し

死の匂いがする僕はそんな空気を肺に満たして封をするそして吐き出す。

 

髪が伸びっぱなしで秩序を失っている踊るように絡まりそして混沌僕はまあいいかなんて思うだって飲み物を買いに行くだけだからサって言い訳をする誰も聞いちゃいないのに。

 

僕は梨の味がする水を自販機で

買った100円だった。

 

黒い街を僕は歩くこんな時間でも人がいることに少し

驚く。

 

彼岸花を見つけたそれはコンクリートがかさぶたのように捲れたところから勢いよく飛び出しているもうそんな季節だったことを

思い出すそして彼岸花の毒的な赤さにまた

驚く。

 

そのあと僕はまた街を歩くそして猿に会う。

 

猿は黒く尻尾が少し長く大きさは膝くらいの丈で目は窪んで目玉は無いがこちらをぢッと見つめていることがわかる。

 

ア と僕は声を漏らすその猿に会うのは初めてじゃないが何回目でも

慣れないその目は本当に黒い色をしているんだまるで人の寄り付かない深井戸のような。

 

僕は猿との会話を

試みる気が触れたわけじゃァないこいつとは一度話してみたい否話すべきと直感的に

感じていた。

 

「君はどこに住んでいるの?」

僕は尋ねるまずは住んでいる場所を訊くのが初対面の人と話すときに便利だと何かの本で読んだようなアレでもこいつは猿だ人じゃない。

 

「住所は無い」

 

猿は枯葉の擦れるような声で言うまるでカフカの短編に出てくる生き物みたいだ名前はなんだったかなああそうオドラデグ。

 

猿に最初に会った時はひどく怖かったものだが何故かもうなにも感じないそれを猿に

伝えた。

 

「それはお前が老いたからだ」

 

猿は言う何を言うんだ僕はまだ十九で世間一般には完全に若い青いと見なされる歳だ。

 

猿は言う

「お前は"生活"に埋没して目を覆っている」

 

猿のくせして偉そうなことを言うもんだと僕は思う猿は続けて言う

「まるで自分はなんの制限もされていない、ましてどこにでも行けるなんて馬鹿なこと思うなよ」

 

猿はいつのまにか火のついた蝋燭を手に持っていて

笑ったそれもとても不気味な笑い方で身体を揺らしている蝋燭の火もそれに合わせて揺れる。

 

「現実はあとこれだけ」

 

猿は蝋燭に目を向けまた笑う嫌な笑い方だ。

 

 

僕はなんだか怖くなった周りの闇が深まっているようなそんな

錯覚いや本当かもしれない。

 

僕は思いっきり猿を蹴り上げようとするしかし僕の脚は猿をすり抜け空を切りバランスを崩して少しぐらつく。

 

猿は夜の闇に溶けた僕はため息をつくそして

 

動悸が速くなる。

掌編 リピート・ガール・アムネジアⅰ(彼)

ある経験を重ねるごとに、そのものの色が薄れていく。下ろし立てのビビッドカラーはだんだんと淡くなり、いつかは真っ白になってしまうのだろうか。僕は時折そんなことを考える。
僕たちは相変わらずいつものスタバで向かい合っていた。「高校最後の夏」は雑に齧られてゆく。僕は数学の問題を解き、彼女は読んでいる推理小説の謎を解こうとしていた。
「そろそろ勉強なさったほうがいいと思いますが」
僕はずっと本を読んでいる彼女に向かって声をかけた。
「大丈夫だよ」
彼女は顔も上げずに言った。
「この前のテスト、ほぼ全教科赤点だったじゃん」
「だってあんな量、急にやれって言われても無理だもん」
急にやれと言われたわけではない。テスト期間があったはずだ。そう言っても彼女はそんなものはなかった、の一点張りだった。「テスト期間」などという言葉も知らない、と言った。
すっかり忘れていたが、彼女は普通の高校生ではなかった。彼女は永遠に高校生だった。彼女はずっと高校生を繰り返す。これまでも、これからも。そしてこの高校3年生の夏は累計268回目だった。自称なので本当かどうかは確かめようがないが。
初めて出会った時、(彼女にとっては268回目だが)彼女は わかるかい、君、つまりはタイムリープだよ、と得意げな調子で自分の奇妙な境遇について説明した。
僕はコーヒーを一口飲んだ。彼女のテスト期間についての記憶が無いことは彼女の「繰り返し」に関係があるように思われた。何度も高校生を繰り返してきたために彼女のなかにあったテスト期間という概念は擦り切れ、とうとうすっかり漂白されてしまったようだった。数学の問題集に目を落とす。指数関数のグラフが描かれている。y=(½)^x。だんだんとゼロに近づく切ない形をしたグラフを眺めた。
彼女はやはり勉強することはなく、飲み終わったフラペチーノのカップを見つめていた。そしてふぅ、とため息をついて
「次の抜き打ちテスト、いつかなぁ」
と呑気に言った。
僕は上手く笑うことができなかった。