木の破片と遺骨のはなし
ぼくのギターが壊れた。
サークルのライブ中、控室でちょっとした事故があったらしく、ぼくのギターはずいぶんと惨めな姿になってしまった。
経緯についてあえて詳しく書いたりはしないけれど、誰が悪いとかの話はしない。
起こってしまったことはどうにもならないし、それについてぐちぐち言うのはナンセンスなことだと思う。
ただ、ぼくは木の板に戻ってしまったギターを前に色々と思うことがあった。
この感情はいつか忘れてしまうだろうから書き留めておく。
ぼくがこのギターと出会ったのは2017年の5月6日、お茶の水の楽器屋だった。
木の質感と小ぶりなボディが気に入ったし、Martinのわりに安かった(6万4000円くらい)から貯金を全て注ぎ込んで買うことにした。
それでもお金が少し足りなかったから付き添いにきてくれた先輩から借りた。
丸みがあってあたたかい音がするギターだなと思った。
ぼくはうれしくて部室にたくさん通って弾いていたけれども、あんまり上手くはならなかった。
これはぼくのセンスの問題。
正直最近は弾きにくいなと思うことが多かったし、よく響くというわけでもなかったから他の人のギターが羨ましく感じることもあったけど、なぜか新しいギターを買おうとは思わなかった。
弾きにくいな、と思いながらずっと弾いていた。
そのギターは文字通り、木っ端微塵になってしまった。
小ぶりなボディには穴が開いて、板と板に分離した。
ぼくは、それを見たとき、とてもびっくりした。
壊れていることにびっくりしたのではなく、「板」であったことにびっくりした。
自分のギターは板を組み合わせて作られた弦楽器にすぎないことを見せつけられた気がした。
薄暗い部室の中、板たちの前で何もできずにぼんやりしていたら先輩がやってきたので一緒に煙草を吸った。
どうやら煙草の味というのは銘柄にしか依存しないらしい。
この一件に近い感情を抱いた出来事を思い出した。
10年ほど前、祖父が死んだ。
目つきが鋭く、あまり喋らない人だったので、ぼくはずっとビビっていたけれど、もう会えなくなると思うとどうしようもなく悲しかった。
お葬式が終わり、まるで廃工場みたいな火葬場へ移動した。
お通夜からずっと、(よく言われる表現だけど)なんだか寝ているみたいに見えた。
祖父の身体は数時間ですっかり焼かれてしまった。
金属の台の上にわずかに骨が残っているだけ。
白い石のようになった祖父を見て、やはりぼくはびっくりした。
あまりに物質的すぎると思った。
身近で、少し恐れていた人が、モノとして目の前にある状況に混乱してしまう。
周りの人間だって、自分だって、白い石に過ぎないのかもしれない。
そんなわけで、ぼくは壊れたギターが遺骨のように思えて仕方がなかった。
ぼくのではないギターが壊れていたとしたら?
きっと「ギターの中ってこんな風になってるんだ」と感心していたと思う。
ぼくがギターを弾いていた"時間"が、ギターをただの板を組み合わせて作られた弦楽器にさせなかったのだと思う。
毛羽立った木の折れ目を見る。
時間と身体の不可逆性に襲われる感覚。