【ヤバい】自分がおまんじゅうになるということについて【つらみ】

なんだか最近、自分がひどくつまらない人間になってしまっているような気がしてならない。いや、もともとおもしろ人間ではなかったのはわかっているのだけれども。

自分のする話、表情、生き様等々、どこからどこをとっても退屈な人間だと感じる。

 

そんなことを考えていると、身体が収縮し、丸くなり、白くなり、やがて宙に浮く巨大なおまんじゅうになってしまうような気がしてくるのである。

大きさは米俵くらい。薄皮がぱつんぱつんでテカテカしていて、成人男性の胸部のあたりの高度を浮遊している。中には申し訳程度のこしあんが詰められている。なぜこしあんなのかというと、自分の中につぶあんが詰まっていると考えるのはなんだかおこがましい気がするからだ。よくわからないが。

 

おまんじゅうになるにあたって、一番恐ろしいのは鳥類についばまれることだろう。

晴れた日曜日の朝にぼく(おまんじゅう)は散歩に出かける。近所のパン屋のショーケースを眺めて、あんぱんと会話をする。やあ、今日は白ごまの配列がとても美しいね、などと話しかけるのだ。さあそろそろ散歩を再開するかな、と振り返るとカラスに取り囲まれているのである。日曜日はごみの収集がないのでお腹をすかせているのだろう、カラスはぼくのもちもち生地を無慈悲にも食い破る。なにせぼくはおまんじゅうなので、強く抵抗する力はない。もうそこで観念するしかないのである。

 

悲しいのはそれだけではない。おまんじゅうになるとき、ぼくのなかの(相対的に)美しい思い出が消え去ってしまうのである。

なぜなら、これは推測にすぎないが、こしあんは記録媒体としてのメモリが圧倒的に少ないからだ。パソコンのUSBポートにこしあんを差している人を見たことがあるだろうか。つまりは、そういうことなのだ。

ぼく(おまんじゅう)は思い出などただの脳に刻まれた皺にすぎないことに気づく。だが同時に、そうやって割り切ることの残酷さに胸(こしあん)を痛めるだろう。頭(こしあん)の中は後悔や嫉妬で満たされる。そうやっていつのまにか賞味期限が切れるのだ。

 

人がおまんじゅうになるとき、それは一種の死なのかもしれない。おまんじゅうは多くを記憶することができない。ただ存在に関する疑問が幹線道路を走る車のように過ぎていくだけである。

(もしいればの話だが)これを読んでいる人は何を言っているのか理解できないかもしれない。安心してほしい、書いているぼくもよくわからない。これは言語野が少しずつこしあんに変わってきている証左である。

いやはや、これまでか