ユーモア集合的無意識論

これは去年の11月頃のことだったと思う。夏は段々と秋色に染まり、朝晩の冷え込みも厳しくなってきていた。大学への往路、身体の体積を可能な限り縮めて寒さに耐えながら歩いていてふと思った。

グレゴール・サムサ

と。何を言っているのかさっぱり分からないという方も多いだろう。自分で思いついた抱腹絶倒面白ワードを自分で解説するのはぼくにとって極刑に等しいのだが、こればっかりは仕方がない。かの有名な小説家・カフカの著作に『変身』という代表作がある。ある朝青年が目を覚ますと巨大な虫に成り代わっていてうんぬん、というやつだ。あの作品はなにを暗示していたのか読み終わってからしばらく考えたのだが全く分からなかった。ぼくの脳も巨大な虫レベルの知能しか持ち合わせていないのでしょう。とにかく、その虫になってしまう主人公がグレゴール・ザムザという名前なのだ。面白偏差値が17億あるぼくはこの凍てつく寒さと文学の世界とを瞬時に結びつけ、頭の中の「グレゴール・サムサ」と書かれたネオンをチカチカ点灯させたわけである。だが残念なことに発表の場がない。ぼくは1人で歩いていたから誰かにすぐ言うわけにはいかなかった。どんなに面白いものでも発表の場がなければそれは無、あるいはマイナスにまで転じうる。にゃんこスターだってコントのステージがなかったら縄跳びを跳ぶ女の子と狂人だ。一瞬でお縄である。"縄"跳びだけに。だからぼくはツイートしてやろうと思った。携帯の画面をつけ、白抜きの鳥マークを押したところで疑問が生じる。これ、もし誰かが先に言ってたらめちゃめちゃ恥ずかしくない?恥ずかしいどころではない。パクツイ扱いされる危険性まである。「ぼくが調べなきゃ誰が調べるってんだい」と例の狂人の如き気概で グレゴール・サムサ とTwitterで検索した。するとどうだ、めちゃめちゃに出てくる。ちょっと引いた。それくらい出てくる。しかもなんだ、ほとんどスベってるじゃないか。最悪だ。まったくもって「グレゴール・サムサ」を活かしきれていない。ぼくは首を振り、そっと携帯をしまってまた歩みを進めた。

ここでこの現象について3つの仮説が生じる。仮説1、何者かがぼくの脳内に入り込み、面白ワードを吸い取って過去の世界にばら撒いた。もしこれが本当ならかなりまずい。コインチェック並のセキュリティの脆弱さではないか。まあそうだね、580億の値打ちはないよ。ねえんだって。うるせえな。でも毎日NEMくはあるよ。仮説2、ぼくが以前グレゴール・サムサという文字列を見たことがあり、その記憶が無意識に引き出された。これはちょっと可能性があるけどおそらく違うだろう。思い出す限りその文字列を見たことはないし、こんなことを言うフォロワーはいない。仮説3、人類には無意識レベルで共通するユーモアが存在する。ぼくはこれだと思う。心理学者、ユングが提唱した集合的無意識という概念がある。簡単に言えば人類は普遍的な元型をもっているということだ。例えば世界中で同じようなストーリーの神話が見つかったりする。物理的に口伝等で伝えられる距離でない場所でだ。これは人間の意識の奥底には共通する考えとかイメージが存在するから。確かこんな感じだったような気がする。ぼくが言いたいのは、これは特定のコミュニティ内でのユーモアにも見てとれるのではないか、ということです。もちろんグレゴール・サムサというネタは日本語話者にしか通じない。本場ドイツで言ったら「こいつ、カフカをバカにしてやがるぜ!」ってソーセージとビール瓶でタコ殴りにされるに違いない。言語を主な媒介とするユーモアの場合、集合的無意識が顕れる範囲が特定されてしまうのは避けようがない。ただ、同じ語圏であれば同じ言葉の語感に面白さを感じるっていうのは簡単に理解できる。北海道の人も、沖縄の人も、本州の人もみんな「ふとんがふっとんだ」というギャグに「ふっとぶなしwww」とひと昔前のオタクのように笑ってしまうのと同じである。つまり「グレゴール・サムサ」はみんなの心の中にあるんだ。

ここまで書いてなんかすごく不安になってきた。そもそも「グレゴール・サムサ」はおもしろいのか?ユーモアだという大前提のもとやってきたけどユーモアと呼べるのか?やばない?でもぼくがこれを面白いと信じないとこの文章は成り立たなくなってしまう。ぼくが信じなきゃ誰が信じるってんだい!