掌編 リピート・ガール・アムネジアⅱ(彼女)

私は繰り返している。この高校3年生の夏は268回目だ。なぜ繰り返しているのかはわからない。アインシュタインが1世紀考え続けたとしてもきっとわからないだろう。私の繰り返しは科学とか因果を超越したところで行われてるから。こんなこと考えるなら草むしりでもしてたほうがよっぽど有意義だな、なんて思う。
繰り返すたび、私の高校の3年間は相対的に短くなる。これ、ジャネーの法則って言うんだよ、知ってる?ってあの人に聞いてみたけど当然のように知ってた。何回高校生を繰り返してもあの人には敵わない。だから一緒にいるのかもしれない。
私は最近物忘れが多くなってきた。「物忘れ」は適切な表現じゃないかもしれない。知らないことが増えたのだ。記憶のプロセスを逆走してしまっているのかな。それとも繰り返しているうちに記憶が擦り切れていっているのかな。そうやって考えるけど、やっぱりわからない。私は何度目でもバカなままだ。
今日もあの人といつものスタバに行った。あの人はコーヒーを頼むけど、私はフラペチーノにしてしまう。あの人は勉強するけど、私はお気に入りの本を読む。あの人はいろんなことを知っていくけど、私は忘れていく。切なくなって空になったフラペチーノのカップを眺めた。
そういえば次の抜き打ちテストはいつだろう。前回はひどい点数を取ってしまって彼に呆れられてしまった。前もって勉強しとかないと。私はため息をついてあの人にその話をした。あの人はなんだかぎこちない笑顔をした。
私は何度繰り返してもこの人のことは忘れなかったし、これからも忘れないんだろうな、とぼんやり思った。

家系ラーメン幸福論

ぼくの住むあたりにいくつか家系ラーメンの店があるのだが、それらの店は大体毎月ラーメン一杯500円の日が設定されている。普段ふかしたじゃがいもで糊口をしのいでいる(マジ)ぼくにとって、その日にラーメン屋に行くことは義務に等しい。雨が降っていようが行く。先月の500円の日、雨の中自転車でラーメン屋に向かっていたところ派手にスリップし、こけた。こけたのだ。大学生なのに。そしてマイ・フェイバリット・ズボンが破けた。綺麗目なファッションに合わせる感じのズボンなのに一瞬でダメージパンツになってしまった。破けたところから見えるぼくの膝は赤く染まっている。ぼくがなにをしたというんだ。近くにいたお兄さんに「大丈夫ですか?」と言われた。大丈夫ではない。だがぼくは今年20歳になるのだ。多少辛いことがあろうとも、そんな素振りは見せずに気丈に振る舞う。これが大人になるということだ。ぼくは「ダイジョブッス」とお兄さんの顔を見ないようにして言った。ほんとに泣きたいな、と思った。
今回言いたいのはぼくが少し大人になった話ではない。普通、ラーメン並盛が500円になる日に何を注文するだろうか、という問いを投げかけたい。愚問だ、と一蹴されるかもしれない。"普通"、ラーメン並盛を注文するだろう。だって月に一回の500円になる日なのだから。そのために行くんだから。だがぼくたちはそれでいいのだろうか?
500円の日にあるラーメン屋に行った。ぼくと同じように500円につられた人たち(みんな目が死んでいる)で店内はごった返していた。ぼくは当然500円の醤油ラーメンの食券を購入し、カウンター席に着いた。目が死んだ仲間たち(そう、ぼくたちは仲間なのだ)もみな嬉しそうに500円のラーメンを食べている。幸せってこういうことなんだろうな、と気づかされる。『家系ラーメン幸福論』という新書をPHP文庫から出版したいと思う。これをご覧になっている出版関係の皆様、ご一考ください。
ぼくの隣の席にひとりのおっさんが座った。おっさんは店員のお姉さんに食券を渡し、お姉さんは厨房に向かって注文をコールする。「ネギラーメン一丁!」…ぼくはハッとした。戦闘系の漫画でめちゃめちゃ強いキャラの気配を感じた奴みたいになった。ネギラーメン。それは500円にはならないラーメンだ。500円の日に500円のラーメンを頼まなかったのだ。おっさんが500円の日の存在を知らなかったと考えることもできるが、食券機にはしっかり表示されている。気づかないわけがない。すると突然、おっさんは店員のお姉さんに声をかけた。「すいません、○○ありますか?」大変申し訳ないのだが、○○の部分は聞き取れなかった。お姉さんは厨房に確認に向かい、○○が用意できる旨をおっさんに伝えた。○○は聞き取れなかったと書いたが、確実にトッピングメニューの中にある名前ではなかった。聞きなれない言葉だったため、瞬時に理解できなかったのだ。ぼくは気づいた。裏メニューだ。只者ではない。こんな玄人の隣で嬉しそうに500円のラーメンを食べている自分が恥ずかしい。ぼくは急いで食べて店を出た。
話は変わるが、1年に1、2回、「ミスドに行きたくなる日」が存在する。別にミスドのドーナツはあれば食べるし、おいしいことはわかっているのだが、わざわざ店に出向くほどではない。だが「ミスドに行きたくなる日」にはミスドに行きたくなるのだ。ぼくは震える手を抑えながら近所のミスドに向かった。すると店の周辺に人だかりができている。ぼくはバカなので「祭りか?」と思っていたが違った。『三太郎の日』だ。auユーザーはドーナツが無料でもらえるというキャンペーンをやっていたのである。つまりそこに集まった人々はタダのドーナツを喰らおうとする輩だったのだ。長蛇の列で、普通に並んだら30分はかかるだろう。ぼくは激怒した。資本主義とはかくも残酷なものか。何が三太郎だ。ぼくも名前に太郎がつくし四太郎ってことでいいだろ。入れてくれよ。え?ダメ?docomoユーザーだから?ふざけるな。年に1、2回しかない「ミスドに行きたくなる日」だぞ。『三太郎の日』よりも貴重だし、文字数だって6も多い。こっちを優先すべきは火を見るよりも明らかである。だがぼくは資本主義社会のなかに位置づけられて生きている。日本にいる限りこのフレームワークを脱することはできないのだ。ぼくは悔し涙をこらえてファミマでチュロスを買った。
ぼくは考えた。ラーメンの例とミスドの例には共通項が見受けられる。ミスドの例で、ぼくは資本主義(auミスドの間で巨額のお金が動いているに違いない)にフレンチクルーラーを食べる機会を奪われた。ある種の不公平感がそこには存在する。ラーメンの例ではどうか。あのおっさんは500円の日に500円対象外のラーメンを注文した。それはそのラーメンが食べたかったからだろう。裏メニューを把握しているくらいである。かなり通い詰めているはずだ。となるとドーナツの例のぼくとラーメンの例のおっさんは同じなのではないか。おっさんにも「家系ラーメンを食べたい日」があって、それが500円の日とかち合った。そのせいで混雑を極めた店内での食事を余儀なくされた。「500円だから店に来るやつ」に自分の信念を侵されるのだ。金銭的な要因に動かされることは時に卑しく映る。他人のそれが自分の金銭から独立した純粋な欲望の領域を侵害したとき感じる不公平感はかなりのものだ。
自分の幸せは他人の不幸せの上に成り立っている、とは言わない。だが、思慮の浅さゆえ他人の機会を損ねさせてしまうことは日常的に存在しうる。…これを『家系ラーメン幸福論』の序文にしよう。これをご覧になっている出版関係の皆様、ご一考ください。

最近読んだ本のはなし①

空っぽの頭を絞って文章を書いているとすぐネタ切れになってしまいそうでこわいです。だから最近読んだ本のはなしをするコーナーをつくります。おもしろさとかは特にないです。

 

『女のいない男たち』村上春樹

村上春樹の短編集。6編。タイトル通り男女間のできごとのおなはし。タイトルにもなっている最後の「女のいない男たち」という短編が特に好きです。"あなたは淡い色合いのペルシャ絨毯であり、孤独とは落ちることのないボルドー・ワインの染みなのだ。そのように孤独はフランスから運ばれ、傷の痛みは中東からもたらさらる。女のいない男たちにとって、世界は広大で痛切な混合であり、そっくりそのまま月の裏側なのだ。" 素敵。

 

命売ります三島由紀夫

自殺に失敗した男が自分の命を売る商売を始めるおはなし。三島由紀夫、恥ずかしながら全然読んだことなかったので手に取りました。この作品はエンタメ色が強いので誰でも楽しめるんじゃないでしょうか。ドラマ化らしいけどできるのかな…。こういう本の解説、難しい言葉で作品と思想と結びつけがちでなんか後味悪いのでぼくは読んで後悔しました。本編はおもしろいよ

 

『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』 木下龍也 岡野大嗣

ふたりの歌人による歌集。ふたりの高校生になりきって書かれていて、うっすらと短歌の奥にストーリーが見えて素敵。装丁もめちゃめちゃ良い。カバーが凝ってて楽しいのでそれだけでも見てほしいです。特典として舞城王太郎の小説が2編ついてきます。お得だね。

“心電図の波の終わりにぼくが見る海がきれいでありますように”

“モラルから夜から簡易ベッドから落ちかけながら交わっている”

良いな〜〜〜

 

こんな感じです。批評できるような素養はないので「めっちゃいい」みたいなことだけを言っていこうと思います。以上!

好きになってしまう原理

好きな俳優、女優を聞かれる機会って結構あると思う。「好きな」とは異性として見て惹かれる部分があるという意味でだ。ぼくは好きな女優について訊ねられたら(訊ねられなくても積極的に言ってしまうが)宮崎あおいを挙げ、調子がいい時は吉高由里子も付け加える。

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宮崎あおいは「良い」。もちろんかわいいし、演技も上手いんだけど、なぜ好きなのかというと「良い」からだ。「良い」以外の言葉では表せない。これはぼくの語彙力の問題ではなく、日本語で表せる範囲の狭さの問題である。同じ言葉でも哲学用語が一般的に使われる用語と指す領域が異なるように「良い」という言葉は存在する。このまま考えを進め、研究を始めれば言語学者になれそうである。まさか宮崎あおいスタートの言語学者はいないだろう。

大学の教授たちは四季を知らないので1月から春休みに入っているわけだが、ぼくはあまりにすることがなく(こんな文章を書いているくらいだ)実家に帰っていた。一人暮らしをしている家にはテレビがない。理由は単純でNHKの集金が怖いからだ。あるチャンネルを見た事があるという既成事実を作り、金をゆする。当たり屋と同じ手法だ。こわい。だからぼくは実家に帰るとずっとテレビを観る。楽しい。おかげで昼の情報番組に詳しくなってしまった。ヒルナンデスの3色ショッピングで優位に立つためにどのような戦略をとればいいかを考えていたら1日が終わる。幸せである。

さて、ずっとテレビを観ているともちろんCMも多く目にするわけであるが、最近けしからんものをやっている。そう、マイナビ転職のやつだ。

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宮崎あおいが出てるじゃないか。しかもぼくの知らない男が頭をなでなでされている。そんなこと聞いていない。「良さ」に頭をなでなでされるなんて。羨ましい限りである。だがぼくは日本の高等教育を受けているので瞬時に理解した。これはCMなので演技だ。「良さ」が「頭なでなでしてやりてぇな」と本気で思ったわけではない。「良さ」はギャラを貰ってなでなでしているのだ。そしてぼくは安心して3色ショッピングについて考えを巡らす。

 

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調子がよい時付け加える吉高由里子の話をしよう。「調子がよい時」というのは、すた丼を食べに行った時に今日は奮発して塩すた丼にしちゃおうかな、みたいな時である。すた丼屋が近くにない方のために、はなまるうどんでえび天をトッピングしてしまう時、もアリにしようと思う。けしからんことに吉高由里子もCMをやっている。三井住友銀行のやつだ。

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彼女は言う。「時間があるっ 時間がないっ」。ぼくは思う。「時間があるっ(あるのか!?) 時間がないっ(ないのか!?)時間があるっ(あるのか!?) 時間がないっ(ないのか!?)」と。このCMが流れるとぼくは前のめりになり、いったいどっちなのかドキドキしてしまう。CMには2パターンあるようで、時間がない場合は「でも大丈夫!」、時間があるのかないのかよく分からないときは「どっちも大丈夫!」と言うのだ。どちらにせよ吉高由里子のかわいさには全く問題はない。それこそ「どっちも大丈夫!」なのだ。ちなみにだが初めてTwitterでフォローした女優は吉高由里子である。

さて、現在ぼくがTwitterでフォローしている女優は2人だけである。1人は吉高由里子。もう一人はというと芳根京子だ。

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芳根京子もかわいい。最近ぼくの中で確固とした地位を築きつつある。派手な顔立ちではないものの、見ると安心する。Twitterもいい。お母さんと出かけたことを書いたりする。絶対いい子じゃん。というわけでこれからはもし好きな女優3人目を挙げるとしたら芳根京子、と低い声で絞り出すように言うようにしたい。

ぼくはこの3人について考えた。なにか共通点はあるだろうか?確かに顔の系統は一緒かもしれない。ただ、ぼくはそれだけではない気がした。この3人が好きなのは見た目だけではないはずだ。例えば吉高由里子二階堂ふみは顔が似ているとネットでよく話題になる。だがぼくは二階堂ふみが特に好きなわけではない。難しい問題だ。

あれ、そういえばなぜ芳根京子Twitterでフォローしたのだろう。そうだ、朝ドラだ。朝ドラ『べっぴんさん』のオープニングでスキップするポニーテールの芳根京子が最高だったからだ。わかった。そこで全てが繋がった。この3人は全員ぼくがよく観ていた朝ドラに出演している。『おひさま』あたりから『ひよっこ』の前半あたりまでは観ていたのだが、宮崎あおいは『あさがきた』に、吉高由里子は『花子とアン』に出演している。そう考えるとたしかに土屋太鳳も高畑充希宮本信子玉木宏も結構好きである。

きっとドラマの中とはいえ、長くその人のことを見ていると気持ちが入ってしまうのだろう。なにせほぼ毎日顔を見るのである。それはすきになっちゃうよ。よく言われる心理学の話で、一度長い時間会うよりも何度も短い時間あった方が好感度が上がりやすいというのがある。そういうシステムだったのか。

ぼくは結論が出てすっきりした。朝ドラが鍵だったとは。…朝ドラ?放送局はNHKだ。こんな素敵な出会いをくれたNHKを当たり屋扱いする奴は許せない。

植物人間筒バシバシ事件

時折思い出してしまう強烈な記憶というのは誰しも1つ2つ持っているのではないだろうか。その出来事に遭遇したときに刻み込まれた脳のシワをアイロンにかけるのは容易なことではない。ぼくも未だに突然思い出してしまうことが幾つかある。失敗したことや恥ずかしかったことは忘れたくても忘れられないものだが、「全く理解できなかったこと」も意外と頭にこびりついていたりする。そういう話だ。

 

ぼくは高校受験のために塾に通っていたのだが、ある女子グループからたいそうイジられていた。なんならいるだけで笑われる。いたっていいじゃないか。みつをが生きていたら擁護してくれるに違いない。彼女らはぼくより頭の良いクラスに所属していたので圧倒的学力差でマウントをとっていた。勝ち目がない(ぼくは勉強したくなかったのでその差が埋まるはずはない)。屈辱でくちびるを噛む毎日が続いたのでくちびるが切れ、8針縫った。これは嘘だ。ある日ぼくが塾で自習をしていると、例のグループがこちらを指差し何か言いながら笑っている。人に指をさすなと教わらなかったのか。育ちが悪いな、と思いながら勉強していたが、その会話が自然と耳に入ってくる。

「生えてる」

彼女らは確実にそう言っている。ぼくを指差し、「生えてる」と笑っているのだ。およそ人間の状態に対して使う言葉ではない。ただ、すごくバカにされているのはわかる。はっきりわかる。ぼくは流石にどういう意味なのか訊いた。すると「イスから生えてるみたいだから」という返答が返ってきた。意味がわからない。しかしその女子グループ内では「わかるー(笑)」と共感の渦である。ほんとに思ってんのか。「根っこ生えてるよね」とも言われた。根っこが生えてないことを示すためにイスから立ち上がると「浮いたー(笑)」と言われる。万事休す。四面楚歌。どうしようもなくなったぼくは「生えてる奴」として塾人生を全うした。

くちびるを縫うこと7回、ぼくはなんとか後期入試で志望していた高校にすべりこんだ。中学を卒業し、高校入学までフラフラと根無し草のように過ごしていた。根無し草のように。するとある日、例のグループの一員である女子からLINEがきた。どうやらぼくの進学先に自分の中学の仲のいい友達も進学するらしい。だから仲良くしてやってくれ、ということだった。その女子とは違う中学校に通っていたので彼女の友達は顔すら見たことがない。とりあえず冗談でかわいいのかどうか訊いてみると、「うーん…」と返ってきた。女子って普通そういうの、思ってなくてもかわいいって言うもんじゃないの?その子の名前を教えてもらい、もし会ったら声をかけようかな、程度に思っていた。

それから日は流れ、高校の入学式当日を迎えた。人見知りのぼくは友達ができるか不安な気持ちでクラス分けの紙を見た。良かった、中学校の友達と同じクラスだ。ほっとしながら今までぼくの人生で交わってこなかった名前の羅列を眺めていた。すると1つ、見覚えのある名前があった。例の女の子だった。全9クラスで一緒になるなんてなかなかあることではない。ぼくは話しかけてみることにした。めちゃめちゃ面白い子だと聞かされていたので期待していた。だが、面白いベクトルが完全に変人方面に向いていた。ダウンタウンを期待して行ったお笑いライブで出てきたのは江頭だったのだ。少し変わってはいたものの、仲良くやっていければいいなと思った。自己紹介程度でその会話は終わった。

入学式が終わり、帰りのホームルームが終わった。男子はみんな少し大きめの学ランのせいか肩が角ばっていて、女子はみんなスカート丈がまだ少し長かった。中学時代有名だった奴の周りに人が集まり、ワックスがけされて蛍光灯が反射する廊下ではどの部活に入るか、などの議題が持ち出されていた。突然放り込まれた新しい学校、新しい肩書き、新しい制服、新しい人の中でみんなが浮き足立っているようだった。そう、根無し草のように。そんな「新しさ」にあふれ、騒々しい教室の中、ちょっとした人だかりができていた。不思議に思ってのぞいてみると、例の女の子がなぜかあめちゃんを配っていた。なぜあめちゃんを配るんだ。まさか高校生活を円滑にするための潤滑油か。先に餌付けしとこうってのか。策略家だ。しかも彼女の感じと相まってすごく大阪のおばちゃんみたいだ。祖母が大阪に住んでいるのでなんとなくわかるがあんな感じだ。彼女はぼくにもあめちゃんをくれようとした。ところでぼくは思ったことを吟味せずにすぐ言ってしまう悪癖がある。普通の人には標準装備されている喉のストッパー的なのが馬鹿になっているのだ。「なんか、大阪のおばちゃんみたいだね」ぼくは感性の赴くままにそう言った。すると彼女の目が一瞬にして吊り上がった。彼女は突然持っていた筒でぼくをバシバシと殴り、

「この植物人間が!!!!」

と教室中に響き渡る声で叫んだ。バシバシ。彼女の猛攻は止まない。痛い。そもそもなんで筒を持ってるんだ。あれ、その筒、クラスの係割りを書く模造紙を丸めたやつじゃない?ダメだろそれは。痛い。ぼくは素直に謝り、やり過ごした。

なんだったんだ一体。ぼくは考えた。めちゃめちゃ歩いてるぞぼくは。どこが植物人間なんだ。そこで気がついた。あの塾の女子である。きっと「生えてる」という情報を彼女に渡したのだろう。そして 生えてる→植物→植物人間という思考回路に至ったのだ、おそらく。ぼくはどうやって紹介されていたのだろう。「同じ塾にイスから生えてる奴がいるんだけどぉ、○○ちゃんと高校一緒だからぁよろぴくぴく☆」とか言われていたのか。最悪じゃないか。

 

彼女がなぜあんなに怒ったのかは未だにわからない。2年生以降はクラスも違ったので全く話すこともなく、理由を聞くこともできなかった。だがあの植物人間が!という叫び声と筒バシバシはぼくの記憶の壁にしっかりとしがみつき、時々再生装置のスイッチを押している。

ユーモア集合的無意識論

これは去年の11月頃のことだったと思う。夏は段々と秋色に染まり、朝晩の冷え込みも厳しくなってきていた。大学への往路、身体の体積を可能な限り縮めて寒さに耐えながら歩いていてふと思った。

グレゴール・サムサ

と。何を言っているのかさっぱり分からないという方も多いだろう。自分で思いついた抱腹絶倒面白ワードを自分で解説するのはぼくにとって極刑に等しいのだが、こればっかりは仕方がない。かの有名な小説家・カフカの著作に『変身』という代表作がある。ある朝青年が目を覚ますと巨大な虫に成り代わっていてうんぬん、というやつだ。あの作品はなにを暗示していたのか読み終わってからしばらく考えたのだが全く分からなかった。ぼくの脳も巨大な虫レベルの知能しか持ち合わせていないのでしょう。とにかく、その虫になってしまう主人公がグレゴール・ザムザという名前なのだ。面白偏差値が17億あるぼくはこの凍てつく寒さと文学の世界とを瞬時に結びつけ、頭の中の「グレゴール・サムサ」と書かれたネオンをチカチカ点灯させたわけである。だが残念なことに発表の場がない。ぼくは1人で歩いていたから誰かにすぐ言うわけにはいかなかった。どんなに面白いものでも発表の場がなければそれは無、あるいはマイナスにまで転じうる。にゃんこスターだってコントのステージがなかったら縄跳びを跳ぶ女の子と狂人だ。一瞬でお縄である。"縄"跳びだけに。だからぼくはツイートしてやろうと思った。携帯の画面をつけ、白抜きの鳥マークを押したところで疑問が生じる。これ、もし誰かが先に言ってたらめちゃめちゃ恥ずかしくない?恥ずかしいどころではない。パクツイ扱いされる危険性まである。「ぼくが調べなきゃ誰が調べるってんだい」と例の狂人の如き気概で グレゴール・サムサ とTwitterで検索した。するとどうだ、めちゃめちゃに出てくる。ちょっと引いた。それくらい出てくる。しかもなんだ、ほとんどスベってるじゃないか。最悪だ。まったくもって「グレゴール・サムサ」を活かしきれていない。ぼくは首を振り、そっと携帯をしまってまた歩みを進めた。

ここでこの現象について3つの仮説が生じる。仮説1、何者かがぼくの脳内に入り込み、面白ワードを吸い取って過去の世界にばら撒いた。もしこれが本当ならかなりまずい。コインチェック並のセキュリティの脆弱さではないか。まあそうだね、580億の値打ちはないよ。ねえんだって。うるせえな。でも毎日NEMくはあるよ。仮説2、ぼくが以前グレゴール・サムサという文字列を見たことがあり、その記憶が無意識に引き出された。これはちょっと可能性があるけどおそらく違うだろう。思い出す限りその文字列を見たことはないし、こんなことを言うフォロワーはいない。仮説3、人類には無意識レベルで共通するユーモアが存在する。ぼくはこれだと思う。心理学者、ユングが提唱した集合的無意識という概念がある。簡単に言えば人類は普遍的な元型をもっているということだ。例えば世界中で同じようなストーリーの神話が見つかったりする。物理的に口伝等で伝えられる距離でない場所でだ。これは人間の意識の奥底には共通する考えとかイメージが存在するから。確かこんな感じだったような気がする。ぼくが言いたいのは、これは特定のコミュニティ内でのユーモアにも見てとれるのではないか、ということです。もちろんグレゴール・サムサというネタは日本語話者にしか通じない。本場ドイツで言ったら「こいつ、カフカをバカにしてやがるぜ!」ってソーセージとビール瓶でタコ殴りにされるに違いない。言語を主な媒介とするユーモアの場合、集合的無意識が顕れる範囲が特定されてしまうのは避けようがない。ただ、同じ語圏であれば同じ言葉の語感に面白さを感じるっていうのは簡単に理解できる。北海道の人も、沖縄の人も、本州の人もみんな「ふとんがふっとんだ」というギャグに「ふっとぶなしwww」とひと昔前のオタクのように笑ってしまうのと同じである。つまり「グレゴール・サムサ」はみんなの心の中にあるんだ。

ここまで書いてなんかすごく不安になってきた。そもそも「グレゴール・サムサ」はおもしろいのか?ユーモアだという大前提のもとやってきたけどユーモアと呼べるのか?やばない?でもぼくがこれを面白いと信じないとこの文章は成り立たなくなってしまう。ぼくが信じなきゃ誰が信じるってんだい!

キリンになりたい

物事には入口と出口がなきゃならない 的なことを村上春樹が小説の中で言ってた。ような気がする。ぼくがこうやって文章を書く場を設けたのはそういう理由です。ありがたいことに、新鮮に感じられることとか刺激に思うようなことがこの雑多な世界に(まだ)たくさんある。そういうものを見ると言葉の前段階の、靄がかった思念が生まれてくる感じがして紙とペンが欲しくなる。こんな感じで言葉の蛇口が捻られることは結構あるんだけど、排水溝がないものだからすっかり困ってしまう。入口はあるのに出口はない。ここを今日からその出口にしたいと思います。年明けに始めた日記、もうつけてないほどの三日坊主だから不安ではあるけどね。

話は戻るけど、この新鮮な世界はいつか食べ尽くされてしまうのだろうか、と不安になってしまうわけだ。サイゼリヤのメニューの間違い探しみたいに、隠された「新鮮さ」や「刺激」は時間とともに見つけるのが難しくなってくる。そんな感じのイメージだった。

ところで、ぼくは谷川俊太郎の書く文章がわりに好きです。というわけでオペラシティでやってる谷川俊太郎展に行ってきた。そのときぼくの頭髪は金色に光り輝いていたものだから、なんだか似つかわしくないなと思って帽子をかぶって行きました。ぼくの稚拙な文章では到底表せないんだけど、展覧会はすごく良かった。詩と音楽と映像を融合させたり、柱に詩を一行ずつ書いてみたり、言葉との新しいふれ合い方を見せてくれてるような気がした。ところどころにメモみたいなのが貼ってあって、そこには本人直筆の短い文章が書かれていたりする。ひとつ覚えているのが「新しい朝というけれど、それなら夜は古いのかな?」と書いてあるメモなんだけど(うろ覚えだから正確さに自信はない)、おもしろいなぁと感心した。もちろん「新しいのはその日のことを指しており、始まりの象徴としての朝を提示しているので夜との対比をしているのではない、バカか」と言ってしまうのは簡単なんだけど、おもしろさを感じるのは言葉遊び的な発想の豊かさなのです。普通の人がラジオ体操の「あった〜らしっい〜あ〜さがきたっ」の部分をきいて彼と同じような発想に辿り着くか?と訊かれたら無理っしょ、と答える以外ない。やはり谷川俊太郎は驚くべき詩的洞察力(こんな言葉が存在するのかはしらない)を持ち合わせていて、それが彼の偉大さに繋がっているのだろう、と偉そうに19の小僧が思ったわけだ。ここで思い出したいのは、谷川俊太郎はかなりのおじいちゃんであるということだ。御歳86歳。おじいちゃんレベルで言ったらラスボス前の中ボスくらいである。そんな長い人生を送ってきた彼だが、作品を見る限り見ている世界の鮮度も共に老いていっている様子は全くない。さっきの「鮮度サイゼの間違い探し理論」の反例だ。もう学会で発表することはできない。

思うのはやっぱり立場によって網膜に何が映ってるのかは全然違うんだなということで、詩人としての谷川俊太郎は大学生としてのぼくと見えている世界の乖離はものすごいんだろう。動物によって見える色、聞こえる音、嗅げる匂いは違うらしいですがそれと似ているのかもしれない。谷川俊太郎がサバンナのキリンとするとぼくはきっとその足元のワラジムシで、視界には草が張り付いているような、そんな感じ。キリンは綺麗な夕日も見られるし、天敵も見つけられるし、高いところにあるミシュラン三つ星の葉っぱを食むこともできるわけで、それは得られる刺激も変わってくる。でも幸運だったのはぼくらが同じ人間だったということで、視界を変えることに物理的制約はないということです。ぼくが彼のような立派で素敵な人になれるかと問われたら怪しいんだけど、いろんなものに触れていればいつかはサバンナのオカピくらいの視点は持てるかもしれない。

と、いうことで昨日御茶ノ水丸善で素敵な短歌集を買ってしまった。今月生活費がヤバいのにね。まあこれも生活の一部か